私は眼鏡をかけて、呪文を唱える
今回はかれこれ20年近くの付き合いになる眼鏡についてつらつらと書いていこうと思います。
生まれた時からと言うとさすがに言い過ぎなんですが、物心ついた時から眼鏡をかけていた私。寝る時とお風呂の時以外はずっと一緒でした。
最近ちょっと思うことがあったので、ここに書き残しておこうと思います。
私はきっと、お姫さまじゃない
幼稚園の頃、同い年で眼鏡をかけていたのは私ともう1人だけ。当たり前ですが、似顔絵を描く時は眼鏡をかけさせれば私に似ているねと言われました。所謂眼鏡キャラと言うやつです。
絵本に出てくるお姫さまはみーんな眼鏡をかけていませんでした。テレビに出てくる可愛い人もみんな眼鏡はかけていませんでした。
今思えば可愛い人は眼鏡をかけても可愛いんだから、可愛い=眼鏡をかけていないというのはおかしいんですよね。
でも当時の私はそれが分かりませんでした。眼鏡をかけている私は、きっとお姫さまになることはないんだろうなぁと、そう思っていました。
頭がいい子か、地味な子か
小学生になり、テストで満点をとりました。国語のテストも算数のテストも100点で、それが何度か続いたのでご褒美を買ってもらえることになりました。
買ってもらったのは「ちゃお」という漫画雑誌。きらきらした学校生活。かっこいい男の子に恋をする可愛い女の子。くりくりとした大きい目。きらきらと輝く瞳。ふさふさの長い睫毛に二重まぶた。理想を詰め込んだ、女の子の理想形。そんな彼女たちは、眼鏡を、かけてはいませんでした。
漫画の中には、眼鏡キャラもいました。男の子でも女の子でも眼鏡をかけているキャラクターは登場します。眼鏡をかけた彼らは、彼女らはどういうポジションにいたのでしょうか?
私が覚えている限りではガリ勉など、とにかく勉強ができる頭がいい子。あとは暗くて冴えない、はっきりいって地味でダサい子です。
眼鏡キャラと言えば頭がいい。鉄板です。また、眼鏡を外したら美少女だった…!なんて言うのも鉄板ですよね。
物語に逃げ込んだ
休み時間となると、私も運動場で鬼ごっこやらケイドロやらをして走り回っていました。上級生がサッカーやドッジボールをしているのを横目に走り回る。遊具の影に隠れたり、他のグループの近くにいってグループの中に紛れ込もうとしたり。運動音痴で足の遅い私なりに、すごく楽しんで遊んでいました。
でも暫くすると、遊びは球技に移っていきました。
球技って何が楽しいんでしょうね。
空振りする時もあって恥ずかしいし、当たったら当たったで痛い上に全く飛ばない。
今でもドッジボールが好きな子は頭のおかしな変態だと思ってます。
(だって当たれば痛いってわかっているのに、ボールを投げて喜んでるんですよ?当てられるのにコートに戻りたがるんですよ?)
まぁ当然、私は完全にチームのお荷物状態でした。でも周りの子達は決して私をのけ者にはしませんでした。失敗しても優しく声をかけて励ましてくれた。それに私の悪口を言うことも(私の知る限りでは)ありませんでした。
みんなに気を遣われて、毎日申し訳なさと情けなさでいっぱいでした。私は人生の中で球技をして楽しいと思ったことは1秒もありません。楽しい休み時間が、ただの苦痛になりました。
私はその苦痛から逃れるため、外で遊ぶのをやめました。
お絵描き、お喋り、粘土遊び…。色々試して、最終的に辿り着いたのは読書でした。
昼休みは私と同じく外で遊びたくないという友達と図書室へ行き、本を読んで借りる。休み時間も外に出る代わりに、席でずっと本を読みました。本を読めば、私は何にでもなれたし、なんでも出来た。
毎日毎日貪るように本を読むようになり、外で遊ぶ子と話す時間が激減しました。
こうして私は、1人教室で本を読む地味な眼鏡の女の子となったのです。
もう私は頭が良くないの
中学生になると私は勉強の出来る、頭がいい子ではなくなりました。
小学生の時、私は全く勉強しなくても100点が取れた。高学年になっても前日の夜にちょこっと勉強しておけば、クラスで1番いい点数が取れる。だから中学生になっても大丈夫だと思い上がっていたのです。
当然、そんな甘い考えで通用するはずもなく、今まで私より勉強が出来なかった子にどんどん追い抜かれていきました。
その上、この頃私は子供部屋とお古のパソコンを与えられていました。毎日夜中までパソコンを弄り、寝不足。このあたりからパソコンでアニメを見るようになり、友達との会話もアニメや漫画の比率が増えていきました。この時点でもうオタクになるのは必然。オタク街道一直線。
成績を上げようなんて努力は一切せず、半分より上ならOKというスタンスで学校生活をおくります。
こうして私は頭がいい子を卒業。休み時間に1人で本を読み、友達とオタク話をするただ地味なだけの子となったのです。
変わらぬまま、変われぬまま
高校は地元のほぼ顔を知っている人ばかりが通っている学校へと進学。
この頃にはもう完全にオタクと化していました。
クラスの陽キャ達に怯え、教室の隅っこで1人ひっそりと本を読んでやり過ごす。そんな毎日でした。クラスではぼっち状態。他のクラスの友達は勿論みーんなオタク。
そして大学に無事合格し、一息ついて思ったのは大学デビューしたいな…でした。
ほんの少しだけメイクをして、眼鏡からコンタクトに変える。大学では私を知らない人の方が多いんだから、わざわざこのままでいる必要なんてないじゃん!これは変わるチャンスなのでは…?
そう思ったのです。
親にとにかく自然に、さり気なく言えるように何度もシュミレーションを繰り返しました。
そして勇気を振り絞り、こう言いました。
このメガネ、キズが増えてきたし…。大学からコンタクトに変えてみたいんだけど…。
返ってきた親の答えは、
今じゃなきゃダメ?
でした。
私の親は学費や一人暮らしのための生活費など、進学するためにかかるお金を全て負担してくれていました。当然、家計を圧迫してしまうわけで。
コンタクトは眼鏡よりを目の負担が大きいっていうし。どうしてもコンタクトがいいならお金のこともあるし、もうちょっと後でもいいんじゃない?それに手間もかかるし…。
そう言われた私は、あっさりとコンタクトを諦めました。
正直、お金は毎年少しずつ貯めていたお年玉の残りがありました。維持費はバイトでもして払えばいい。手間も目の負担も確かにあるけれど、1回コンタクトにしてみて合わなければやめればいいんです。
でも私がそれを口に出すことはなく、眼鏡のまま入学式を迎えました。そして今も、眼鏡をかけたままです。
呪いと鎧
私には眼鏡をかけていなかった頃の記憶はありません。だからこそ、眼鏡をかけているというのがあまりにも当たり前な事なのです。
そして私の今の性格は、勿論全てとは言いませんが少なからず眼鏡に影響されていると思います。幼少期に抱いた眼鏡へのイメージ。それが自分の行動に影響を与えていたのでしょう。
眼鏡をかけているから、お姫さまにはなれないのだと思いました。
眼鏡をかけているから、可愛くないのだと思いました。
眼鏡をかけているのは頭がいい子か地味な子だけ。
頭が良くないと気づいてしまった私は、地味な子なのだと思いました。
そして、オタクとなった私が可愛いわけが無いと思いました。オタクは、暗くて地味でぼそぼそ喋る日陰の存在だからです。
私の呪文
今こうやって書いて並べてみると、ひっどい偏見ですね。ほんとに視野が狭いというか、なんというか…。
でも、きっとこの考えは未だに私の奥深くにあるのでしょう。長年、繰り返し繰り返し唱えてきたわけですから。
で、わりと最近気づいたんですよね。これって自分への言い訳だったんだって。
私は可愛くなくて地味で暗い。これは私が眼鏡をかけているからなんだ。眼鏡を外せばそんな事ない。可愛くはないけどブスではないんだ。
眼鏡を外せばオタクっぽく見えないし、それなりに見えるはずって。
眼鏡は私にとっての呪いみたいに思っていたけど、自分のことを正当化するための鎧でもあったんだろうな。
本当に無意識のうちに、呪文を唱えてきたんだと思うのです。
「メガネを外せば、私はブスじゃない」